治作の歴史

現在の治作のあたり(明石町)は、江戸時代明暦の大火をきっかけに、大名屋敷を作るために埋め立てられたところに、明石藩の民が暮らしたことから名づけられたといわれています。近くには浅野内匠頭のお屋敷もあったとされています。

安政5年(1858年)日米修好通商条約により開国の条約を結んだ幕府は、江戸にも神戸、長崎などのように貿易のために来日する外国人のための居留地を設けることを義務づけられ、この辺り一帯が外国人居留地となりました。

外国人居留地

横浜の外国人居留地とを船で行き来できる便の良い場所から、文明開化の中心地となっていきます。日本で初の電信がむすばれたのもこの横浜と築地間でありました。当時、治作の場所には、「東京運上所」という現在の税関がありました。

築地居留地は商館の多い横浜や神戸と異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行ったため、日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成しました。今でも近くには多くのカトリック教会、旧跡が残ります。(旧跡、発祥の地:雙葉学園、関東学院、暁星学園、明治学院、青山学院、立教女学院、慶應義塾、女子学院)

明治32年以降外国人居留地が廃止されると東京運上所が他の場所へ移ります。当時この一帯は、重要な交通手段であった船での便が非常に良く、文明の栄えたにぎやかでおしゃれな街であっただろうと想像できます。その後、便のいい立地に合った治作は様々な名家の邸宅となり、昭和6年治作の創業者、「本田次作」が買い取ります。玄関と入り口のホール、入って右手の応接室は今も昔のままの姿を残しております。

創業者 本多次作

昭和六年(1931年)、つきじ治作は初代総料理長兼店主、本多次作により創業されました。
自分の名から次作を「治作」と変えて命名したものです。それまで各地で幾多の料理店を成功させ、「戦前日本の割烹王」とまでいわれた本多次作が、満を持しての東京進出でありました。初代総料理長本多次作は、非常に豪快な人柄で、慶び事、人を驚かせる事が大好きで、庭園の山水に見る事ができる巨大な石灯籠や輪塔は、本多次作がその大きさに目を付け、各々が夫婦(めおと)になるよう各地から運ばせた物です。

中でも玄関脇の「吃驚土瓶(びっくりどびん)」は、創業当時、土瓶で水炊きを給していた事に由来し、本多次作が信楽の狸焼物の名人「狸庵」に焼かせた物だといわれており、搬入の際、あまりの大きさに大掛かりな運搬に新聞に載るほどの大騒ぎになったと記録されております。吃驚土瓶は、直径3.5m高さ3.5m、現在でもつきじ治作のシンボルとして玄関にてお客様をお迎えしております。

本多次作はまた、非常に厳格な人物であったといいます。現在、本多次作の姿を知る先代総料理長 渡辺節男はこう語ります。

「いっつも黒紋付に袴、白足袋で、すきっと立っておって、そりゃあ恐かった」
東京進出にあたり、本多次作は、東京人の味覚、江戸前の味にこだわりました。東京で自分の店を成功させるためには、東京人の味覚に合った物を提供しなければならないと考えたのです。そのため、自分以外、九州の料理人は一人も使わず、東京で自らが見込んだ料理人だけを採用したのです。それは、江戸前の料理と自らの料理の違いを知り尽くした「料理人 本多次作」ならではの選択だったといえるでしょう。

本多は治作名物の水たきを、その製法のみ伝え、東京の料理人に作らせたといいます。料理人が変われば、当然料理の味も変わります。双方の味の摺り合わせには、相当の苦労があったと聞きます。そうして幾多の試行錯誤の末、つきじ名物「鳥の水たき」が完成したのです。この水炊きは、現在でも、「水たき番」と呼ばれる専任の、たった一人の料理人により、かたくなにその味を守られているのです。

さて、昭和六年、折しも万宝山事件、満州事変が起ったこの年に創業したつきじ治作は、通人の間でまたたく間に評判となり、大盛況となりました。これに意を得た本多次作は日本料理を引っさげて、遠く大陸まで手を伸ばす事となりました。北京治作を開店させます。しかしながら、これが苦労を招く事となったのです。

戦時中(第二時世界大戦14-20)には、遠く北京やシンガポールにまで手を伸ばした本多次作を襲ったのは、敗戦という大きな波でありました。本多は終戦を向かえ、まさに文字どおり、着の身着のまま、一文無しで帰国する事となったのです。そして、糊口をしのぐため、当時の日動ビルの地下にある食堂の支配人という職を得たのでした。

戦時中、つきじ治作は石川島造船所の社員寮として供出されていました。この明石の町は元外国人居留地であったこと、多くの教会があったために大空襲、戦火を逃れました。治作の建物はほぼ無傷で残ることとなります。

つきじ 治作 再開と長谷敏司

戦後、元の持ち主である自分の名前で交渉すれば、この建物を安価で買い戻せるらしいと聞いた本多次作は、なんとしてでもつきじ治作の名を復活させたいと願いました。そうして白羽の矢を立てたのが先代、長谷敏司(はせとしつか)でした。

長谷敏司は東京で飲食店やキャバレーなど7店の飲食店を経営する事業家であり、本多次作の後輩にあたる料理人でもありました。この長谷敏司も大変なアイディアマンで、銀座の中心地に直径1.8メートルの回転する地球儀形のネオンサインを設置し、評判を呼ぶなど、どこか本多次作と似通ったところがあったといいます。

新世界

戦後まもなくして、本多次作は長谷敏司の元を訪れました。戦前より親交深く、師と仰いだ事もある大先輩の悲願を聞き、敏司の心は大きく動かされます。しかしながら、築地の治作といえば建坪八百坪(約2,600平方メートル)、客室数三十を超え、精緻を極めた中庭を有する大料亭です。買い戻し、改築し、開業するには、いくら廉価に買い戻せるといっても、相当な費用を要します。思い悩む側近たちを後目に、敏司はつきじ治作再建を決断します。折しも連合国と日本の講和協議が間近に迫ったこの時、日頃から「事業は度胸だ」と言って憚らぬ、長谷敏司らしい決断でした。

長谷敏司の工面した資金で治作が買い戻される一方、本多次作は自らの嗜好に合った調度品を整え、かつての料理人や仲居を呼び戻し、開業準備を整えました。そして、昭和二十六年九月十八日、新生つきじ治作が再開される事となったのです。つきじ治作は、開業後、たちまちのうちに往年の人気を回復し、さすがの敏司も本多の実力に舌を巻いたと言います。のちに、長谷敏司は白金の地に久原家別宅を買い取り、八芳園をはじめることになります。(八芳園、長谷敏司の歴史はこちらより)

当時は入浴後に浴衣を着てお食事を楽しむスタイル。戦後復興のにぎやかな時代、新橋演舞場から治作の間には多くの料亭がありました。新橋芸者など花街もにぎやかで、治作も大変繁盛しました。今でも治作の裏手には船着き場がありますが、当時は対岸を行き来する渡し船があり、治作にも自家用の船があったといいます。下町との往来も随分と便利だったそうです。

 

昭和28年鈴木翠軒先生が八芳園を訪れた際に書かれた「酔客満船」は大広間に、また次作が中国で親交のあった画家の美松氏が治作を訪れた際に、満身で喜ぶ本田次作の姿を色紙に書いたものが一壺天(いっこのてん)、現在も治作のマークとして様々な場所で目にしていただいています。

その後、本多次作は子息と共に神戸治作を開業します。資金は長谷敏司が調達し、それを機に本多は築地の治作から撤退し、先代長谷敏司のみでの経営となります。

昭和38年、姉妹店として銀座治作を開業。

先代長谷敏司、料亭の繁栄と移り変わり

銀座治作 開業当初
土蔵レストラン『神戸治作』

昭和39年東京オリンピック開催の年、長谷敏司はオリンピックプレスハウスレストランの運営実行委員長となり、大きな貢献を果たしました。同年、紺綬褒章授章を授賞

昭和45年頃、東京都の財政難が囁かれる頃、長谷敏司は借地だったこの土地の権利を入手できる千載一遇のチャンスだと喜びます。方々へ働き掛け、治作の土地を東京都から購入し、ようやく全てが長谷敏司の所有となります。政治家や著名人の多く訪れる、紹介制の高級店でありました。49年創業社主勲三等瑞宝章受章叙勲

昭和50年頃、時代は結婚式ブーム。白金八芳園での経験も活かし、料亭での結婚式をはじめようと、治作に神殿を作りました。目論見は当たり、料亭での結婚式も繁盛。現在に至るまで多くの結婚式を見守ってまいりました

昭和50年以降、枯山水の庭園を池に改装し、池に泳ぐ鯉も一新、色鮮やかな錦鯉を取り揃えます。「食べ物屋で泳ぐ鯉は痩せていてはみっともない」とエサをたっぷりと与えられたふくよかな鯉が100匹以上、今日も元気に泳いでいます。

昭和50年以降、バブル景気も後押しして、つきじ治作は盛況で財界人、著名人から多くのお客様が名物の「水たき」を求めて来店しました。その盛況ぶりから、デパートなどから多くの出店依頼を受けて、営業店舗を増やしていくこととなります。

イギリス、イタリアへ直接赴き、交渉して「バビントンティールーム」「イルサルマイヨ」の出店など当時の話題をさらう店舗を開店していきます。

昭和55年 新宿伊勢丹2F バビントンティールーム開店

昭和60年 伊勢丹松戸店  つきじ治作 開店

      新宿伊勢丹本館3F カフェロダン開店

昭和63年 新宿伊勢丹地下 イルサルマイヨ・サンフィリッポ 開店

平成5年  築地場外波よけ神社向かい 築地和楽 開店

平成8年 東京ビックサイト トップライト開店 以外にも多数出店

バビントンティールーム
イルサルマイヨ

平成に入り、景気の衰退、接待交際費の削減、省庁の接待経費削減など新橋花柳界/料亭などが軒並み撤退、閉店。新橋銀座築地界隈では、「金田中」「吉兆」「新喜楽」「つきじ田村」など少数が残るのみとなりました。

デパートの経営状況も変わり、又ライセンスの期限などもあって、各種店舗なども閉店することとなります。(現在、つきじ治作、銀座治作のみ)

平成16年新潟中越沖地震をきっかけに、錦鯉の産地である山古志村が被災したと聞きつけた長谷は現地へ出向き、その支援の一環として以降、山古志村の錦鯉を入れています。

平成20年 株式会社八芳園と長谷観光株式会社に分離 経営・運営が別会社となります。

平成20年頃から 和婚ブーム、神社婚ブームにより、つきじ治作での結婚式も増加しました。

平成に入り、震災などで古い建物を維持するのは大変なことではありましたが、耐震工事、改装修繕などを行いながら、800坪の広大な料亭は今なお昔の姿を残しています。東京では貴重になった庭園のある料亭、これほどの池と鯉を眺めながらお食事を楽しめる場所は他にはありません。

錦鯉

ニシキゴイ(錦鯉)は、 観賞魚用に改良したコイの品種の総称。色鮮やかな体色が錦にたとえられた。日本の新潟県で品種改良や養殖が進み、国内各地への移入や海外輸出が進んだ。「生きた宝石」「泳ぐ芸術品」とも呼ばれ、業界団体である全日本錦鯉振興会は日本の国魚と位置付けている

 

「紅白」紅白は、白地の上に 緋斑があるだけの鯉で、赤と白を組み合わせた品種

「大正三色」紅白に黒の斑紋が加わった鯉

「昭和三色」大正三色に比べて墨が多く、その逆に白地が少ない

「丹頂」丸い緋斑が頭部に1個だけある鯉。日の丸の国旗をイメージされ海外にも人気

「五色」山古志村自慢の品種。大正三色の白・赤・黒と浅黄の青・濃紺の五つの色

「山吹黄金」神々しい黄金色

「丹頂三色」丹頂に黒が少々加わったもの

「菊水」オレンジと白のドイツ鯉